棚の奥の記憶

March 12, 2026

僕が働いているクリーニング店は普通のクリーニング店と違っている。どこが違っているかというと、記憶をクリーニングするということだ。お客さんは記憶にまつわる衣服を持ってきて、クリーニングを依頼する。

記憶のクリーニングは普通のクリーニングとさほど手順は変わらない。まず衣服を水に浸して、専用の洗剤で洗濯する。洗濯が終わったら乾燥機に入れて衣服を乾かす。洗濯をした後の衣服は、色が薄くなり、皺が伸びる。その衣服をまた身に纏った時、記憶は思い出へと変わる。

記憶には良いものもあれば、辛いものもある。大抵の人は辛い記憶や悲しい記憶を持ってきて、その感情を和らげたいと願いクリーニングを依頼してくる。クリーニングをすれば、汚れが落ち、色が薄れ、その記憶にまつわる感情も和らぐからだ。どんな記憶にも関わらず、依頼されれば僕は衣服を受け取り、ただ淡々と洗濯をする。

十一月のある日、一人の男が訪ねてきた。その男は黒色のジャケットを差し出してこう言った。

「恋人と喧嘩別れした時の記憶です」

ジャケットは長年大事にされてきたと見られ、袖口の糸が少しほつれていた。

「その人とは三年一緒に暮らしてきたんです。別れ際に喧嘩した以外で目立った喧嘩はしたことがありませんでした。喧嘩の発端は僕が仕事で忙しくて彼女と一緒にいる時間が前ほど取れなくなってしまったことでした。きっと少しの不満がどんどん積み重なっていって爆発してしまったのかもしれません」

「ジャケット、お預かりしますね。仕上がりに一週間くらいかかりますがよろしいですか」

「はい、問題ありません。よろしくお願いします」

そう言って僕はそのジャケットを預かり、クリーニングをした。袖口の糸のほつれも直してあげた。袖口を直している時、その男と恋人がどんな部屋に住んで、どんな会話をしていたのだろうと想像した。

そして一週間後、男がまたクリーニング店を訪ねてきた。

「この間のジャケット、仕上がっていますか?」

「はい、仕上がっていますよ。糸のほつれも直しておきました」

「ありがとう」

男はジャケットを受け取って、代金を支払った。

午後にまた一人新しいお客さんがやってきた。見た目は五十代くらいの女性だった。その女性は手編みの赤いセーターを手に持って、

「母の記憶です」

と言って、そのセーターを差し出した。

「母は今年の三月に他界しました。死因は老衰です。ちょっとした怪我から介護が必要になり、最初は自宅で介護を行っていたのですが、段々と一人で面倒を見るのが難しくなり、施設へ預けました。正直に言うと母が亡くなったと施設から連絡があった時、どこかほっとしたんです。介護をしていた頃からずっと精神的に縛られている状態から解放されたという感じでしょうか。セーターは私が幼い時に母が編んでくれたものです。遺品整理をしている時に見つけました」

使い古されたセーターからは、幼い少女が成人し、現在に至るまでの時の流れを感じさせた。 クリーニングが終わった後、その女性が店を訪れることはなかった。

ここでまた一つの記憶が忘れられていった。

この仕事していて日々思うのは、人の記憶はなんて危うげで儚いものだろうということだ。クリーニングを重ねるたびに、感情の色は薄れ、人々は何も感じなくなっていく。それにも関わらず、ほとんどの人がいとも簡単にクリーニングを依頼する。僕がお客さんの立場だったら、記憶を感じられるままに保っておきたいと思うからクリーニングなんて依頼しようとも思わない。

その日のお客さんはジャケットを受け取りに来た男性と、赤いセーターを預けた女性との二人だけだった。夜の八時に僕は店を閉め、夕食を取った。食事は前日の残り物のポトフとフランスパンで簡単に済ませた。

それからもぽつりぽつりとクリーニングの依頼が来て、僕は仕事をこなしていった。

ある朝、店へ出向くと店の前に一着の子供用のコートが置かれていた。差出人の名前も住所もわからなかった。コートのポケットには子供の手のひらくらいの大きさの石が一つ入っていた。

そのコートを手に取って、僕は思いを巡らせた。すると冬の小川で誰かの迎えを待ち続けながら、石投げ遊びをする一人の少年の情景が目に浮かんだ。

そのコートはクリーニングされることを望んで、誰かが置いて行ったのだろうか。僕は石ころを握りながら、そのコートが誰の記憶かも分からず思案に暮れていた。その朧げな記憶を洗濯してしまえば、少年があたかも存在していなかったように、消えていなくなってしまうのではないかと思った。結局クリーニングはせずにそのまま店で保管しておくことにした。

その後何ヶ月経ってもコートの受取人は訪ねてこなかった。時々クリーニングを依頼してきたお客さんにそのコートの持ち主に心当たりがないか聞いてみたが、駄目だった。受け取り待ちの衣服の棚にかかった小川の少年のコートの記憶は洗われず、その時の存在のままを保っていた。僕はコートを店の奥の棚へ移動させた。店の奥には、まだ洗われていない記憶が静かに積まれている。

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